昭和四十七年十月七日 朝の御理解
X御理解第八十九節 「此方の道は傘一本で開くことができる。」
傘一本が問題である。この傘一本を頂く為に信心をしておると、だから言うてもいい訳です。その道を開く事が出来るというのは、もう様々な道に通ずる事が出来ると思う。例えばお道の《教師》を志す人にとっては、教会を持たせて頂くという道。そして人がどんどん助かっておるという御比礼の道が開けてくる。それは傘一本にかけられてある。商売が繁盛のおかげ頂く。いろんな問題が解決の道をつけて頂く。あの世この世をかけての、言わば安楽の道が開ける。そういう確信を持った、生き方が出来れる。そういう道を教えて下さる。
だから道を教えて頂いても、問題はその傘一本がなからなければ出来ない。道を教えて頂いても、それをやはり、その道を辿らせて頂かねば、開くという事はない。どうでも一本の傘を頂かしてもらうおかげ。私はこの傘一本というものを、安心とこう頂いております。信心をさせて頂く事によって、心に安心が生まれてくる。そこでその安心が、いつでも、どんな場合であっても、そうした平生心と言うか安らぎが頂けておる、という事でなからなければならない。それが安心である。
究極は死生の安心。死ぬか生きるかという事の上にも、安心のおかげを頂く。そういうおかげを心の状態の中に頂かせて頂いたら、一切の道が開けてくるのである。幸せの道、繁盛の道。ですからどうでもその、この成程、傘一本で開けるとおっしゃる。その傘一本を目指しての信心。ですからそれは、安心という事は、御徳という事にもつながる。御徳を受けておるから安心なのである。徳のない間は心配する、身に徳を受ければ心配はない、と教えられておられる。
ですから徳を受けていくに従って、安心の度合、いわゆる大安心とでも申しましょうか、が開けてくる。そういう大安心の心が開けてくる事によってです。これはお道の信心ではですよ。お道の信心では、絶対に人間幸せの道が開けると、教祖は教えておられる。これはだから金光教はという風に言わなければならんのですね。どんなに安心立命をしておると言うても、人間の本当の幸せにつながらない。そんなら、やっぱそういう宗教も沢山あるのです。ですけれども金光様の御信心はそうじゃない。
そういう心が開けたら、いわゆる一本の傘が頂けたら、道を開く事が出来る、というおかげにつながる事が出来るのです。一切の道が‥‥。だからその一本の傘を頂くという事の為に、いわゆる信心修行させてもらう。御理解八十八節の最後のところに、「心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである」というところがございますねえ。そこで段々信心をさせて頂いておって人は本当に、腹が立つ事じゃろう悲しい事じゃろうという時であっても、決して悪い顔を見せんですむ。日頃の教えという鏡を出させて頂きますとです。
人間ですからやはり喜怒哀楽の情というものを持っとります。嬉しい時には嬉しい顔をする。悲しい時には悲しい顔をする。腹が立つとやっぱり、腹立たしい顔になってくる。けれどもひと度そこに鏡を立てて、日頃頂いたおる教えというものを、思い出させて頂くとです。悲しい顔ではなく、怒った顔ではない。言うなら嬉しい事があるからと言うて、相好を崩して、喜びを隠し切れない、というような状態の時には、やはりどうも心が本当じゃない時。言うなら調子に乗り過ぎておる時。そこで私は思うのですけれどもね。人に悪い顔を見せぬという。
だからあんまり良い顔も見せてはいけない、と思うですね。今日はあっちは、ニコニコとしてから、よっぽどよか事のあったじゃろう。今日は機嫌がよかった。明くる日はそれとは反対、というようにです。非常に照り曇りというものがね、烈しい人がある。いや烈しくはなくても、人間ですからやはり嬉しい時には、やっぱ何とはなしに嬉しい。腹が立つ時にはクーッとした顔をしとる、といったようなですね。段々信心をさせて頂いて、この傘一本が頂けてくる稽古をさせて頂いておると。それが非常になくなってくるようですね。所謂いつも平生心。
と言うてそんなら能面のように、いつも冷やかなと言うかねえ、いつも無表情なというのでは決してないです。無表情であるという事は、私はよい事じゃないと思う。いわゆる信心させて頂いて、傘一本を頂くという事はです。いつも言うならば、にこやかであると言うか、しかもそれが生き生きとしておるという。どういう災難にぶつかった時でも、にこやかにしておれれるという事。何か自分の思うようになった時、それはにこやかにしておるように、にこやかでそれは心に、嬉しい時には、嬉しい表情が出来ましょうけれども。それを特別嬉しいと言うのじゃなくて、いわゆる有難いという心をいつも持てというのである。
『先日から、まあこれが信心が薄かったりない時には、頭にカッカくるような問題があった。けれどもおかげを頂いて、おかげで平生心。平生心が乱れない。だからその事を乱れない心で神様に、お願いをしておりましたら、前の信徒会長の平田繁吉さんが半眼ですね。眼を閉じてもおられない、と言うて開けてもおられない。静かに瞑想する、時の様子です。少し眼を開いて、そして、顔はにこやかな顔で座っておられるところを頂いた。しかもその半眼、少し開いておる眼の底に光っておるように眼が生き生きとして輝いておるのが、少しばかり開いておられる眼から覗かれる訳です。それは例えば普通で言うならば、頭にきたと、言うて腹を立てたり、クーッとしたりするような事柄に直面しておってもです。おかげで私の心は平生心であった。
だからそのお知らせを頂いた、平生心というだけではなくて、それを喜んで受け止めておる。平田繁吉という事は、私は、田圃がいっぱい稔っておる、繁盛しておるという意味だと思うです。平田繁吉というのは、おかげの受けものいっぱいにおかげが満ちておるという事。そのおかげの受けものそのものがです。最近では平田さんの事を、みんなが先生先生と言うけれども。先生と言うちゃいけない、と言ったような、先生と言うちゃならんと言うから、みんなが最近は、大平田と言ったような表現で、平田さんの事を言われる。本当に素晴らしい、大平田だと。
その大の字が付く程しの大きな受けものに、いっぱい繁っておる、という事。いっぱい満ち溢れておるというおかげ、そういう頭に例えばカッカッとくるような、まあ言うならば、それをカッカとこんでも、クーッとしたりシュンとしたりしてしまうような時です。より大きな受けものを神様が作って下さるんだと思うから、眼が生き生きとして輝いておる。本当に信心ちゃですね。腹をそういうような時に、そういう心の状態で受け止められるという事が有難い。例えばそんな頭にカッカッくるような事を聞かせて頂いてもです。平生心でおれる。
只、平生心だけでなくて、むしろそこにお礼を言う心がある。それが私は平田繁吉さんの半眼の様子をして、顔全体ににこやかな表情というようなものから、只平生心でおられたというだけでなくて、ほんな事これは、より大きなおかげの受けものを作って下さりよるとだなあと思うたら、嬉しくなって、有難うなって、それこそ、眼が輝いてくる程しのおかげになってくるのです。』
昨日、日田の綾部さんが、もう親先生今頃は、もういろいろ自分の周辺に起てくる事、お店の上にでも起てくる事。けれどもそれが一向気にならんでしもうてから、何かこれはぼやーっとなって、ぼけていきよるとじゃないかと思う位に、気にならないとこう言う。有難い、段々信心を進めさせて頂くにつれて、何時でもどんな場合でもどんな事が起てきてもです、親先生のお取次を頂いて、親先生のお指図のままに、おかげを受けてゆけばおかげになるという確信が出来たからです。
だからまあばたばたしとるような事であっても、そげんばたばたせんでもよかがのとこう言える訳です。先日も親戚にあるまあ普通で言うならば、大変難儀な問題が起った。ところがそれを綾部さんが聞かれてから、心がひとつも騒がない。それで、私がお参りしている合楽の親先生に願って上げますから、もう兎に角親先生のおっしゃる通りになさい。それ迄はもう兎に角、気が気でないようにして、相談に見えた。けれども御自身の体験と、そんなら親先生の右か左かおっしゃるそういう事にならせて頂いたら、そげん心配せんでんよかですよ。
そんならお願いして下さい、と丁度ここから朝参りをして帰られて直ぐ電話がかかって来た。それで私が右なら右、左なら左、というご返事差し上げとりましたら。昨日お参りさせて頂いてから、親先生がこうおっしゃったですよと言うたら、その方も安心したようにして帰られたとこう言うのである。昔なら私もそういう大変な問題が起ているのですから、しかも身近な親戚の事ですから、私も一緒にその事件に巻き込まれただろうというのです。もう絶対巻き込まれただろうと言うのです。
それはああたこうしたらいいですよ、ああしなさいと、もう自分がカッカッ来たに違いない。ところがもうそれこそ第三者です。としての平生な心で、それを見る事が出来る。それで私が、言うただけでは相手が安心しなさらじゃったけれども。そんなら親先生に電話でお取次頂いて上げましょうと言うて、親がこうおっしゃったと言うたら、安心して帰ったと、こう言うのである。それけん私は綾部さんに申しました。そういうような問題が問題でなくなってきた。と言われるから、今私が頂いとった平田繁吉さんの事を。そこは平生心を頂いておるだけではいけない。もう、本当にそういうおかげの頂けておれれる自分自身が、何と有難い事になって来たものか、という、その心がね、より大きなおかげの受けものが、頂ける事なんだ。
只平生心であったら平生で、今日も明日も変らん受けものだ、というだけの事。それが乱れないというだけの事。けれども、その平生でおれれるという事がです。こういう例えば事件、こういう問題が起きておるという事がです。いよいよ私の心を、より豊かに大きくして下さる事であり、言うならばおかげの受けものを、一段大きくして下さる事に気付いた時にです。眼は輝いてくる訳です。そして人がバタバタ言うたりしたりしておっても、じっと座って半眼で、心静かに神様にお礼を言うような状態が生まれてくる。
例えばそういう状態をです。傘一本と今日は聞いて頂きたいと思うのです。どんなに暑い時でも、傘一本開かせてもらや、暑い思いをせんですむし、どんなに雲行きが危うくなって今にも降りそうという時もです。傘一本を持っておれば、心が安らいでおる。よし降って来ても、おかげで開きさえすれば、濡れんですむという、事。それが傘一本という風に。だからそういう心の状態というものはです。自分の心の上に頂いて行けれる稽古なんです、信心とは。今朝三時半にここに出らせて頂いたら、ジャンジャン電話がかかっておる。昨日の御祈念がすんでから、嫁がちょっと模様が違ったようですから、家内が一緒に小野先生の所に、参っとります。そしたら直ぐ電話がかかってきて、まだまいっときは、生まれませんと言うて、小野先生から、そういう電話があったという。
勿論神様にお願いしないはずはありませんから、お願いさせて頂いた。そしたら今朝丁度ここへ、控え出らせて頂いたら、暫くしたら電話がかかって来た。そして女の赤ちゃんが無事安産のおかげ頂かれた、という連絡であった。本当言うたら私は初めて、言わばおじいさんになる訳です。言うなら初孫です。無事安産のおかげ。ところが心にですね、何か湧き上がるような嬉しさというものが全然ない、と言うてさっきから申しますように、無表情というものではさらさらない。只お礼を申し上げれば、もうそれこそ、瞼の裏が熱うなる位に、ただ有難いと言うだけである。
そしてこの世に出て来た。その瞬間から、この世での修行が始まる。その事をです、願わせて頂くような心なんです。これは丁度私の姪の泰子が亡くなった時の、それと同じなんです。さあどうするかと言ったような、慌てふためくという心が全然ない。しかし悲しみの涙すら出ないように、そんなら今日の場合、初めて爺になった喜びとか、初孫を無事安産のおかげを頂いたからと言うて、そんなら有頂天になる事もない程しの何とはなしに、それは隠し切れぬ悲しみ、又は、隠し切れぬ喜び、というような事をよく申しますけれどもね。
私の場合は、ひとっつも悲しみの場合であっても喜びの場合であっても、隠さんですむ程しのものを頂いておる、という事をね。今日はいよいよ改めて有難いと思いました。隠さなくてよい。隠し切れぬ喜び、隠し切れぬ悲しみ。言うならそれを、いつもこう平生でおれれる。ですから次の時点に、もうどういう事になっても、その時点がまた平生な心で受けられるという事が有難い。勿論それを厳密に言うたら、それは目の荒い事でございましょうけれども。そういう心の状態をいよいよ育てていくという事が、いよいよおかげが限りない。
おかげが頂けるだけでなくて、限りなくその心の状態というものが、垢抜けしてくればおかげも垢抜けしてくる、でしょうし。いよいよ豊かになってくればおかげも豊かになってくる訳であります。楽しいですね信心は。だから‥‥。私はこの世に生まれてきてです。人生にそういうところに意義を感ずる。又は生き甲斐を感ずる人生というものは、素晴らしいと思うです。只飲んで食うてちょいと、というような事ではね。いわゆる大きな幸せ、大きな幸福というのはそういうのを大きな幸福と言うのじゃないでしょうか。自分の都合のよか事ばっかりありゃ、もう笑いが止まらんごとある。そういう事が幸せではなくてです。
悲喜こもごも様々な事がある。そういう時にです。有難いという一辺で絞ってゆけるという事。辛い苦しい時に、悪い顔を人に見せてはならん。いわゆる黙って治めてゆけと、確かに治る、おかげが頂かれる。そんならそれとは反対にです。それこそ笑いが止まらないというような時でもです。調子に乗り過ぎらんですむ、言わば有難い心というものを頂いていくという、頂けれるという事。そういう心の状態を傘一本だという風に聞いて頂いた訳です。昨日、石庭の御用に梅里先生が見えておった。梅里先生が見えたと言うから、私はそちらの方から、廊下づたいにやらして頂いとったら、昨日会堂の方の大きな柱の塗り替えをやっておる。もうこれで三辺塗り替える。塗るだけで何辺塗ったじゃれ分からん。
そしたら私が顔見て、「先生、もう泣こうごたる」と言うて、本当に泣こうごたる顔するのです。私も悲しゅうなった。あんたばかりじゃなかばい。本当に私も泣こうごたる、よ、と。これをそんなら受けておる三和工業は、尚泣こうごたろうと。けれどもね、より立派なもの、より麗しいもの、が出来ていくと思うたらね。何辺重ねても、これは楽しい事ばい有難い事よと。この会堂がすぐ潰れるというようなものならばってんか。この会堂はもうおそらくいついつ迄も残るだろう。
この柱の仕上げは、どこどこの何々という塗装屋がしたという事に残るのだ。ここのところを、もうちょっとこうしとくと、と言われるのと、本当に見事に出来た立派に出来た、と言われた方があんた、ようはなかか、まあこっちお出でと言うてから、梅里先生にそこでお茶をあげながら、話してましたから、一緒にそんな話をしましたら、えらい感動をしましてね。ほんなこつ先生、そうですね、という風な意味の事を言って、‥‥。何かもう、またやらにゃ、またやり直しをくうと言うてから、もう度々、一生懸命でやっておる。それも見える訳です。とても私どんならば、もう一辺やり替えろとか、とてもとても言いきらん。
けれどもこれは約束が違うからと言うのでやり替えさせて頂く事になった。やり替えさせられると思うたら、腹も立ったり、それこそ泣こうごとあろうけれど、より麗しいものがここに出来るんだというところに、精魂を込めさせて頂いたら、有難いと迄はいかんでもです。何か生き生きとして仕事に、そんなものを感じました。昨日の御理解ではないですけれども。自分がやる気でやる、という時には、子供でちゃやるよと、こう言う。やる気でやる時には。けれどもやろうごとはない時でもです。やれと言われて本気でやる気でやる人が徳を受けるという意味の事を頂いたでしょう。
昨日の、その塗装屋の場合がそうです。もうやる気がない。もう泣こうごたる、言うなら泣き泣きやる。先生泣こうごたると。それはもう本当に実感として、私も悲しゅうなるごたる風にして言うんですよ。いやあんただけじゃなか、私も悲しゅうなるよ本当、‥‥。けれどもね、と言うそこからです。相手の心の中に何かその、言うなら生気が、ほんな事、より良いものを作る事の為だと。後に残るのだと、いうようなね、意気がそこにまあ感じられた訳です。ですから私共がですね。それは辛い悲しい、と言う時でもです。思いを一つかえさせて頂きますとです。
その事は有難い事に、いわゆる平生の心と同じで受けられる、だけではなくて、お礼の言えれる心で、それを受けてゆけれる、そういう稽古。そういう稽古が出来ていく時に、私はそれと反対にです。笑いが止まらんといったような場合であっても、そういう稽古が出来ていっておるとです。私が今朝感じました。初孫が出来たという、その知らせを受けてです。それは嬉しくなかとか、困ったとか、というような事は誰でも思う者はおるはずもないですよね。また一人出来たけんで、またこれはいっちょ大ごとになったと、いうようなものはないですよ。
けれどもそれをそんなら平生の心で受けられるだけではなくてです。本当にただ有難いという、言うなら半眼でじっと心の中で、その事を思われる。そして、そんなら、今日生まれた子供がです。これから一生の事をです。本当に願われれるという心の状態を、私は有難いと思わせて頂いたら、今日八十九節を頂きましたがです。おかげでその破れ傘ではあろうけれども。破れ傘でも一本頂いておるという事が、私は有難いなあとこう思わせて頂いた。その傘がいよいよ立派な傘になってゆけばゆく程、です。
例えば八十八節の一番最後のところにあります。人に悪い顔を見せんでもすむだけではなくてです。調子に乗り過ぎた、いわゆる有頂天な姿などというものも、人に見せんですむ、というて、それは決して、無表情とか能面のような、顔つきになれという。そういうような心の状態ではなくてです。心にはいつも眼が生き生きとして有難さに輝いておるというようなおかげの頂けれる信心を目指したいと思うですね。どうぞ。